「田んぼの学校 春の分校」 畦草調査

雨上がりの日曜。
「農と自然の研究所」の宇根さん、嶺田さんを迎え
「田んぼの学校 春の分校 横浜舞岡分校」が開催しました。

畦草の調査する場所は、「土の会」の田んぼの畦。
畦草刈りの作業を先伸ばししてもらっています。
こんなに畦に背の高いハルジオンがあるのは、そうないことです。
畦草をじっくり観察すると、いろんな発見がありました。
...その発見は、また土の会のHPでアップします♪

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畦草調査。
花の色を判断基準にして、観察してゆきます。
黄、白、赤、青、花のない(ようにみえる)もの

畦、水路、他...
それぞれに植生が違うのがわかります。

土の会の畦草の種類は、20数種ありました。

d0021152_23324640.jpgそのなかで
外来種を確認してゆきます
すると3割から4割が外来種でした。

嶺田さんによると、この割合は、
よく管理、配慮されている結果、とのこと。

放ってある野原などでは、
外来種が8割をこえるといいます。

d0021152_23405166.jpg畦草の名前を知ること。
名前にこだわらなくても、
その各草の存在を意識すること。

視線を注ぐことで、みえてくるものがあります。

いつ、どんな道具で、どのくらい刈るのか
刈る回数などを、まず畦草を観察することから
田んぼと畦の関係がみえてくるのでしょう。
雑草という草はどこにもありません。ね♪


さいごに、宇根さんがお話されていた
石牟礼道子さんの「名残の世」からの引用のお話を記したいと思います。
これは、以前の東京分校でのお話でもあり、
別のレポートで私が記してあったものと重なりますが、
とてもすてきなお話なので、舞岡分校での話に付け加える形でここに記します。

作家 石牟礼道子さんは、水俣を描いた著書「苦海浄土」等で知られる
人や、万物のいのちを、深い情景を、あたたかな文章で綴る作家さんだと私は思います。

石牟礼さんの「名残の世」の一節。内容はこんな感じ。

蜜柑を育てているご夫婦。
「草が呼びはる」という。
小母さんは身体が悪い。
小父さんは、男の方が早く死ぬのだから、
おれが死んだあと、おまえの相手にしてくれるよう密柑山に言うとくよという。
その後、小父さんは亡くなって、小母さんももう蜜柑山に行けない身体になるけれど、
近所の人は、畑に行くときに、小母さんに密柑山に言付けはあるかと聞く。
すると、小母さんは言う。

「(蜜柑畑の)草によろしゅう言ってくれなぁ」


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蜜柑にではなく、
草に、よろしくといえる百姓仕事。
収穫物である蜜柑も、そうではない草も、
小母さんにとっては、おなじいのちで、
幾度も刈ってきた草の方へも
情愛を注いでいるということ。
草と同じ世界に生きているという情感。

宇根さんはいう。
『田回りの最中に、生きものにみとれるときがある。作物にみとれるときがある。
 畦を歩きながら、野の花に心ときほぐされる時がある。
 時を忘れて、自分を忘れて、人間であることを忘れて、生きものとともにいる世界がある
 こういう世界を無駄だとは言わせたくない。』

『目的を達成することだけが仕事ではない。
 しかし、「現代では、もうそんなことは不可能だよ」という声は、
 この国に満ちている。これこそが「時代の精神」である。
 経済成長に寄与しないどころか、経済の足を引っ張る人生には、冷たい時代である。
 だからこそ、「生きもの調査」に続いて、
 「草花調査」をどうにかして百姓仕事にしたいのである。』

宇根さんのいう「畦学」とは、
ただ畦草刈りをしていくのではなく、
刈る時期、刈る回数、刈る道具、刈る高さ、ちゃんと検証され、
農学的に裏づけてゆくことで、「なぜ畦草が大切なのか」をかたちにしようとしている。

d0021152_2353189.jpg畦にひっそりと咲く、小さな花は、
はっと息をのむほど、きれいだ。
その名前を、その植物を知ることで、
足元の小さな花を知ることで、
大きなことへも提言できる。
百姓は、稲を育てているだけではない。
多くの風景、自然のなかで、
生きものの、自然のためにいるのだ。
それが「百姓学」であり「畦学」である。


自然と人が関わり合ってゆく未来を、「草によろしく」といえるこれからを、愉しみに。
植物の観察、調査を重ね、見つめ続けよう。
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by tutinokai | 2007-05-12 13:58
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